少し話は変わりますが、世のため人のために戦い、弱きものを助けて正しい生き方をした者は死後も報われる、肉体の死を持って終わりではないという価値観が「鬼滅の刃」や古武道の根底にあると思いますがいかがでしょうか。
侍の死生観は凄く簡単で。侍には「武士道とは死ぬことと見つけたり」という過激な言葉があるのだけれど、常在戦場、常に命をかけていますというのが侍の生き様なの。その時にお侍さんの場合には、死後の世界があるとか無いとかは関係ないの。何が大切なのかと言うと、名誉と名前。
名誉、名前……
面子……?
面子ではないの。ちょっと違う。一番カッコいいのは義のために死すこと、なんだよ。やくざが言うところの義理の義じゃないよ。侍の義は、忠義。「義によって助太刀いたす」という義ね。
それはどういう義でしょうか。
その時にさっきの武術の話になるのだけど、何を教えるのかというとさ、天の道なのだよ、武術というのは。天の道というものがあってね、それをこの世で現実化するために戦う人間が天には必要なので、あなたがそれを求めるのならば、天からその能力を授かるだろう、というのが各流派の究極の教えなの。
だから、「自分のために剣を使うな、武力を使うな、大義のためだったら命を差し出しな、その時に何が残るのかと言ったら名前が残る。それでいいじゃないか。『あの人は義のために死んだ』と名前はきっと誰かが語りついでくれるよ」となるの。
それが最大の名誉だったのですね。
それが最大の名誉だったし、それがキリスト教精神と限りなく近いの。だからイエスは精神の世界では「義の人」と言われているの。「義の人でありなさい」というのが、日本の武士道教育の中では徹底して行われたの。例えば、自分が「この人は天の道に反しているよね」という人が弱いものイジメをしていたら助太刀しないわけにはいないの。それが変な話だけど武士道精神というものです。
若い世代が古来よりの日本の精神に回帰しているというのが良くわかりました。
江戸時代でいう卑怯者ってあれだよ、藩内で噂が立ったら自動的に切腹ものだからね。そうしないとお家断絶されるからね。
そういう秩序があったのですね。今は名誉という考え方は薄い気がする…
戦争に負けてこの方この国ではお金第一だけれどさ、日本の歴史の中でお金が第一だったのはさ、戦後の今の70年くらいしかないの。
では、明治までの1,700年とか1,600年間は、精神が大切にされてきた時代だったと見ることができる?
歴史を見るとそういう風に解釈することはできるよね。刑の歴史で言えば、平安時代に死刑が無かったというのは、現実には天皇の名で死刑はしていなかっただけで、各地域ではやっていたのは間違いないのだけれど、それにしたって表向きは統治者の名前で死刑はやっていない、というのは歴史的事実だからね。それって世界史の中でもとんでもないことで、精神性では例えばキリスト教で言う神の国に近いのよ。
じゃあ、「鬼滅の刃」によって日本の精神や日本の文化を再発見する若い世代が増えていくのですね。
日本の古き精神文化の最後の輝きが大正時代なの。大正って不思議な時代でね、大正デモクラシーって、本当に民主政治があったの。その時日本軍は物凄く小さくて影響力が無くて、それでこのまま日本が民主化して豊かになるだろうって信じていた時代だったの。
それが大不況になって軍部が台頭して、あの戦争に突き進むということになるんだけれどね、その背後にあったのは、世界が共産化していくっていう動きなの。一部、今日の米国の大統領選挙まで繋がるような一連の共産主義者の働きかけがあって、日本もそこに引きずりこまれました、という話だと思います。
(あ! 世界と日本の歴史の話はまた別の企画でじっくりやりますね~!)
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